村田幸伸氏Yukinobu Murata
モーゲンスターン・シカゴ 代表米国公認会計士
大学卒業後大手建設会社入社。2002年、米国公認会計士試験合格を機に渡米しロサンゼルスの現地会計事務所に勤務。2003年、現地で独立し2016年からシカゴに本拠地を移転。米国中小企業のCFO代行業務を軸に活動中。米国公認会計士。
今年の税務申告シーズン、米国会計業界では「H&R Block がIBMワトソン導入」のニュースが話題となった。H&R Block は税務サービスのフランチャイズチェーンで、至る所に店舗がある極めてポピュラーな会社。その会社がAIを導入するというので「今年の税務申告はワトソンと話しながらやるのかもしれない!」という期待が高まり、近年元気がなかったH&R Block が脚光を浴びた。
膨大な税務知識を学習
ワトソンは、7万4000ページに及ぶ米国連邦税法や各州の税法と過去60年分の税務申告書を学習している。知識量的には恐らくワトソンにかなうCPAはいないだろう。CPAは大きな危機感を覚えそうなニュースだが、実のところCPAの反応は鈍い。なぜなら、H&R Block が行っている「個人の税務申告業務」に関してはすでに”決着が付いている”からだ。
日本の確定申告にあたる個人の税務申告業務。かつては「CPAにお願いする」のが主流だったが、30年ほど前から「わざわざCPAにお願いしなくても、近所のH&R Block に行けばいい」という流れになった。さらに15年程前からは「わざわざH&R Block に行かなくても、自宅でオンラインでやればいい」という層もかなり増え、H&R Block の勢いがTurbotax などのオンラインサービスに奪われていった。それでも、いまだに「CPAにお願いするのが安心」と思う層も、「オンラインよりも店舗の人と対面でやるのが安心」と思う層もおり、それぞれ住み分けができていた。
ワトソンの本当の役割は?
個人の税務申告は、オンライン化できるほどシステマティックなので、さほど”判断”の余地がない。PC画面で質問に答えていくと申告できてしまうオンラインサービスか、店舗に行って担当者の質問に答えていくH&R Block か、CPAと会話しながら申告書を完成させるか。選択の基準は「コミュニケーションの違い」である。今回のAI導入は「店舗に行って人の代わりにワトソンと話しながら申告する」という新たな選択肢を消費者に提供することとなり、ワトソンに期待される真の役割は知識量よりも、コミュニケーション能力である。
とは言え、多くの人々は「税務申告は複雑で難しい」とか、「優秀なCPAにお願いすれば還付金が増えるのでは?」と思っている。この美しき誤解が、いまだCPAに依頼する動機となったり、「CPAでなくても、せめてH&R Block のスタッフと話しながら申告できれば安心だ」と思う原因となっている。ここに”CPAよりも圧倒的に優秀なワトソン”が自分の税務申告をしてくれるとなったらどうだろう。「ワトソンならきっと凄い方法を使ってたくさん還付金を生み出してくれる」と思う人もいるかもしれない。
AI導入によるブランディング&コストカット
一方、H&R Block の側から見ると今回のAI導入は「話題作り」であり、「ブランディング」であり、「コストカット」の可能性も示唆しているように見える。各店舗のフランチャイズオーナーにとっては、店舗スタッフを雇ってH&R Block の研修を受けさせて、顧客対応の教育までするよりも、フランチャイズ本部に追加の使用料を払ってワトソンを使うほうが圧倒的に効率が増す可能性がある。
H&R Block は多大な広告費をかけ、今年のスーパーボール(アメリカンフットボールの優勝決定戦)に約1分間のCM枠を取りこのワトソンの宣伝を行った。バドワイザーやキャディラックなど、男性が好きそうなブランドのCMと並んで「税務申告の会社」がC M を打ったわけだが、反響はなかなか上々で、私の周りの”会計業界ではない”人たちも「今年のH&R Block はワトソンで税務申告するらしい」と認識していた。
一方、Turbo tax などを使ってオンラインで税務申告をしている人たちの反応は少々冷めたものだった。「オンラインで簡単にできるのに、AIを使って何をするの?」という、鋭いリアクションが多く、税務申告の本質がわかっている人ほどCMの影響は受けにくいようだった。もっとも、H&R Block が狙っている層は、オンラインで自力で申告することに不安を感じる層(現在も米国民の多数派)と思われるので、知識層の反応も想定の範囲内だったのかもしれない。
サービスレベルの均一化を可能に
ワトソン導入店舗におもむき、実際にワトソンで税務申告を行ってみた。ワトソン導入店にもかかわらず、ワトソンの使い方を店舗スタッフがつきっきりで教えるというあまりコストカットにはなっていない状況だったが、初年度なので慎重に進めたのであろう。申告のプロセスは、オンラインでキーボード入力するか、ワトソンの質問に答えるかという、コミュニケーション手法の違いだけだったように思えた。ただ一点「スタッフの税務知識レベルに依存しない」業務が可能になっている点は大きな違いであった。
米国では、銀行でも会計事務所でも担当者によってサービスレベルが大きく変わる。消費者はそれにストレスを感じつつも仕方なく受け入れているのが現状だ。H&R Block のようなチェーン店はアルバイトスタッフも多く、知識レベルも人によって大きく異なる。しっかりした内部システムがあっても、人が顧客とコミュニケーションを取り、その解釈をシステムにインプットするので、アウトプットは担当者によって変わってしまう。しかし、コミュニケーションをワトソンが行うことで、アウトプットの質はかなり均一化される。担当者はワトソンの隣で見守りながら、顧客サービスに徹しているのが見てとれた。
ワトソンの今後の課題
インプットを顧客が行うとなると、インプットの質によってアウトプットが大きく左右されてくる。税務に詳しくない顧客ほどワトソンの助けを必要とするが、知識が乏しいほどワトソンのアウトプットを理解できなかったり、ワトソンが理解できるようなインプットができなかったりして、プロセスが滞っている現場を見ることがあった。店舗スタッフがサポートしていたが、今後はこのインプットとアウトプットのコミュニケーションギャップの解消が課題となりそうだ。しかし、そこはAI。今年の膨大なコミュニケーションデータを学習し、「こういう質問は、実はこれが知りたいのだろう」と予測できるようになるのだろう。
現場で「ワトソン顧客」のリアクションを観察してみて、米国の知的サービス業の未来を垣間見た気がした。税務申告だけではなく、保険や銀行業務といった担当者によって大きくサービスの質が変わってしまう業態も、今後AIの導入によってサービスの質が向上し、顧客のストレスを低減させる効果があるのではないか。
一人の若い男性が、税務申告終了後に”COOL!!”と言って喜んで、スマホでワトソンを撮影しFacebook に投稿している姿が印象的だった。